

ケルテス/ウィーンフィルの「新世界」はDECCAの録音で定評があり、復刻版は今も人気がある。
多くの人は、高評価のコメントを述べているが、中には正反対とも思われる批評もある。
生演奏で聴いているのではなく、オーディオ装置を通して聴いているので、装置の違いで聴こえ方も違って、それが評価の違いに繋がるのかも知れないと考えた。
特にクラシックでは、かなり装置の再生能力をよくしないと、誤解を招くのではないかと思う。
クラシックの中でもオーケストラはさらに再生能力が問われると思う。
私は耳にやさしい高音をイメージして、真空管アンプを使ったことがある。
それはかなり有名なアンプで、価格は48万円だった。
出力は17W×2で、高域に使ってみた。
スピーカーが帯域ごとに高音、中音、低音というように分かれていて、端子も独立している場合は、それぞれの帯域に専用のアンプを使うことができる。
それで、高域にこの真空管アンプを使ってみたのである。
音は「まろやか」という感じで、これが真空管の特徴かと思った。
そして、高音がきつい音だったので「まろやかな真空管を使っても、きついのはスピーカーの特性だ」と思っていた。
低域は160W×2のトランジスタアンプを使った。
しばらく聴いているうちに、気になったのは、低域〜中域〜高域の繋がりである。
音量ではなく音色の違いである。
ジャズやポップスではさほど気にならないが、クラシックでは音色の繋がりがかなり気になるようになった。
しだいに我慢できなくなり、音色の自然な繋がりを求めて、一台のアンプで駆動することにした。
分離を犠牲にしても、その方がよいと思った。
真空管アンプはオークションで売って(人気があるせいか、なかなかいい値ですぐに買い手がついた)しまった。
一台のアンプにしたら、音色のバランスは当然のことながら良くなった。
ある日、実験的に高域のスピーカーに150W×2のトランジスタアンプをつないでみた。
これが驚き、高域がきついと思っていたスピーカーが、非常にきれいに鳴った。
高域のクセはスピーカーのせいではなかったのである。
それで、高域側にも低域と同じ重量級のアンプを使うことにした。
今までレコードを聴いていて、ヴァイオリンの音に歪みっぽい高調波が入っているのは録音のせいだと思っていたが、実はアンプが再生できないために歪みっぽく聴こえていたのだ。
要するにバイアンプにしたわけであるが、アンプを2台にしたことで、低域の躍動感、中高域の分離もよくなり、全体として「やさしい音」になった。
家に来た人は「聞きやすい音だね」と言うので、私の聴感と一致しているなと思った。
ということで、メインアンプの問題は解決したわけだが、プリアンプの問題もある。
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プリアンプが必要ないという意見オーディオを語るとき、しばしば、CDプレーヤーからプリアンプ(コントロールアンプ)をパスして、ダイレクトにメインアンプにつないでいるという話を聞く。
そして「だから音が良い」と言う。
私はこれには疑問を持っている。
確かに、CDプレーヤーとメインアンプの間に余分なものがないから、信号が途中で汚れないだろうということは想像がつく。
しかし、私は今まで何度も試みたが、結果がよかったことは一度もない。
だから、それで音が良いと言っている人の装置を一度聴かせてもらいたいと思っている。
言葉での表現は難しいが、イメージとして、プリアンプのない装置は「インスタントカップ麺を、湯を入れないで食べているようなもの」のようであると感じるのである。
中には、湯を入れないでそのままの方が好きだという人もいるかも知れないが、プリアンプのない装置というものは、それぞれの素材の味が感じられない音のような気がする。
パワーアンプは文字通り
「電力増幅」であるが、プリアンプは
「電圧増幅」である。
つまり、信号の大きさを復元しているところである。
プリアンプはアナログのレコードを聴く場合、イコライザの部分もあるが、信号を大きくするという役割が大きい。
拡大コピーのようなものだ。
拡大は忠実にすべきで、歪んで拡大されるのはよくない。
というか、その歪んだ拡大が個性となって、それが好みという人もいるのだろう。
私はあくまでも忠実な拡大派なので、そういうプリアンプがよい。
アキュフェーズは創設者の春日社長が言っていた
「アンプは色付けのない大きな導線のようなものでなくてはならない」を実現したものである。

私が行き着いたのもアキュフェーズで、アンプが存在を誇示しない、丈夫で信頼度抜群というところが気に入っている。
少々高いがそれだけの投資効果はあったと思っている。
10年以上経っても、何のトラブルもないどころか、ガリひとつない。
まあ、オーディオ装置全体としても、音楽を聴く上では存在を誇示してほしくないというのが私の考えである。