■コンサートによく出かけること
音がどう聴こえているか他人にはわからない。
当然のことだが、これが非常に大切なことだと思う。
音は「耳で聞く」というが、実際には脳で知覚されるわけだ。
脳には過去の記憶が残されていて、それが実際の音と相まって知覚になると考えられる。
梅干しを食べた経験のある人は「梅干し」という言葉を聞いただけで唾液が出てくるという、無意識の記憶がそうさせているように、似たような現象が「音を聞く」ということにも当てはまると言ったらよいでしょうか。
オーケストラの指揮者は、交響曲の楽譜、つまり全楽器の音符が書いてある総譜(スコア)を見るわけですが、その楽譜を見ただけで頭の中で音が鳴っています。
その頭の中の音をイメージして指揮をするわけです。
指揮者はオーケストラが音を出す前に、指揮棒を振ります。
練習の時は、そのイメージ通りの音が出ない時、棒を止めてメンバーにイメージ通りの音を出すように指示をするわけです。
こういう音楽の世界を知っている人には、釈迦に説法ですが、知らない人は指揮者とは、まるで音楽に合わせて踊っているようなものだと思っている人もいるようです。
だから、指揮の練習はCDを再生してその音に合わせて指揮をしても、ほとんど練習にならないわけです。
あるピアニストの家を訪問した時、ちょうど鍵盤の部分だけはずして作ったようなものが置いてありました。
でもピアニストはこれで練習するのです。
音が実際に出なくても、ピアニストの頭の中では音が鳴っているのです。
まあ、紙鍵盤でも同じことですが、実際の鍵盤と同じでないと、指の力の入れ具合の練習にならないわけです。
■ラジカセも存在価値がある
話が長くなりましたが、音楽を仕事としていない人も、コンサートに行くことで、脳が無意識に音の学習をし、自宅のオーディオ機器で音楽を聴いた時も、無意識のうちに記憶された音を引き出すのです。
だから、高価なオーディオ装置でなくても音楽は楽しめるわけです。
そういう意味では、ラジカセでもミニコンポでも存在価値があると言えます。
実際のコンサートを聴かずに、オーディオ装置ばかりにお金をつぎ込むのは、その人の行き方でいいのですが、それは現実の音を知らないで、装置そのものの音にこだわっているだけで、こういう人が私の感覚では「オーディオマニア」という感じがします。
何かまわりくどい説明になりましたが、私が言いたいのは音楽を聴くのに、装置は必ずしも高価でなくてよいと言うことです。
そのかわり、現実のコンサートに出かけることだと言いたいわけです。
実際、プロの音楽家は意外なほど、高価なオーディオ装置にこだわらない人が多いと、私は感じています。
「一応、音が聞こえればいい」と言います。
写真を載せた、ラジカセは5千円もしませんでした。でも、存在価値はあります。
ミニコンポでもそうです。



