
こういう演奏を聴いて、どう評価するか?
コンクールでは、審査員は純粋に音楽だけを聴いて評価するのだろうが、学校での部活の音楽は、音楽そのものだけではないと思う。
もう少し、具体的に言うと、このコンクールに来るまでどういう過程を経てきたかということを問いたい。
中学校の吹奏楽は、生活指導が大きな割合を占め、指導者(先生)の指導責任が8割だという人もいる。
練習の参加自体が問題になっている部もある。
欠席が多く、なかなかまとまった練習ができない。
部員はまじめでやる気があっても、練習場所に困る。
予算が少ない。
指導者にめぐまれない。
等々、学校の部活は音楽以前に様々な問題を抱えている場合がある。
様々な問題を抱えて、なんとかコンクールの日を迎えたという学校は、それはそれで立派なものだと思う。
いろいろな困難を経て、コンクールでいい賞をとるのが常連になった学校もある。
そうなると、困っていた部員集めも、入部希望者が多くてという事態になったりすることもある。
コンクールへ出るために恵まれた環境で活動した生徒たちと、困難を克服してコンクールへ出場した生徒たちとでは、どちらが得るものが多いかは、卒業後の生徒たちの人生を見るとわかる。
アマチュアの活動は、音楽以前の活動が大切であり、そこがプロとは大きく違うところでもあると思う。
優れた指導者は、めぐまれない環境の吹奏楽部に力を貸してやってほしいものだと思う。
私も吹奏楽で中学時代を過ごしましたが、部活では先輩の言うことを訊いたり、授業態度、急な成績下落については厳重に注意されていて
それでも3年時には地方大会金賞と万年県銀賞止まりだった団体とは思えぬ結果を残しました。
地方大会目前に勝手に合宿を画策してしまいましたが、未遂であったこと大部分の父兄の理解も得ていたため簡単な反省の日を過ごし其の儘出場させてもらいました。これは日々の練習生活態度信頼から許して貰ったもの本来であれば出場辞退になってもおかしくなかったところです。
準備や裏方に積極的に出席するのは、ほとんどそういう人たちですから。
先輩たちの作った土台で、ぬくぬくとやっている人たちは苦労知らずということがよくわかります。
ところで、吹奏楽はコンクール一辺倒ではなく、もっと街へ出たりして積極的に地域貢献をすべきだと思います。
そういう活動をすることで、部員たちが得るものも多いと思います。
また、吹奏楽コンクールは、大会の演奏だけでなく、1年間のバンド活動も評価に取り入れるというような方向に改善したらと思います。
私は親から兄の生活などトラブルのあったときには良いから兄には金を出せと恐喝を受けている。
いつの教師か分からないがそういった間違った価値観を植え込んでいるアホを何とかして欲しい。
キリスト教はやけに兄弟愛だ、家族愛だというが
金銭は無限にあるものや兄弟だからと言って簡単に分け合えるほどのものではない。
兄弟の金銭などどうにも出来ない。
親の教育は誰がする?
先輩方の積み上げの上に受賞があることは否定できません。しかし、努力して得た成果をあたかも先輩が頑張ったからそれだけで受賞できたという誤解を招く言動はいかがですか?
メンバーは3年だけではなく2年も居たことです。
顧問からはこれは私たちの練習態度を見て、日大○○高校の先生が急に貸したくなったと訊かされました。
校名も覚えています。打楽器を指導してくれたプロの音楽家のお名前も
今もこの姿が良いのか理想の薬剤師とは何か?
目の前の患者様が欲している情報は何かを投薬(処方箋で薬を受け取る時)という一瞬で考えながら仕事をしている。決して系列店の金儲けのためではなく、その人がどうしたらより健康になれるかを考えている(ビタミン剤ですらタダでは買えませんので売上や商品のお勧めと取られても仕方ありませんがそれで楽に(安全に)熱が下がったり、女性であれば通常の生理が周期的にくる健康な暮らしが出来れば私は嬉しい)。(世の中には生理が止まりそのことが原因で病気に罹りやすくなっている人が中にはいます。そういった人を薬で救えるのなら救いたい。)
それを活動内容などで評価すると言うのは本末転倒だと思います。
それなら陸上競技や野球で試合で負けてもいいと言うことになる。それは違うと思いませんか?
やり方(吹き方や叩き方)が分からなくて苦労するのはそこにはそれを伝える文化が無いことを示している。そういう集団にはどれだけ頑張っても上には上が居るということを知ることが人生の勉強になるのではないでしょうか?
音楽なのに音楽的要素以外で評価すると言うのは行き過ぎかと思います。個人的にその思いは分かりますが…。
私は音楽的知識は殆どありません。しかし部では美しい音だったり、音程が吹いている間にふらつく人はいませんでした。Trpも4名同学年に居ましたが音が篭っている人は1人居たかどうかでした。
コンクールですので上の大会ではもっと良い演奏たが出来ることも受賞には影響するでしょう。
私たちが関東大会の『駄目金』で終わったのも。他に優れていた団体があった。その前の代の先輩達の方が音楽的知識も音楽に対するやる気も上回る部分も多かったとは思います。50名以上と言う大所帯の学年のあと直ぐ後の学年であったことも影響あったことでしょう。三十数名の学年でしたが、勝ち負けではないが演奏の回数やそんなことはコンクールに持ち込むことではない。コンクールはコンクールで(活動を見ていた)顧問の先生の評価は先生の評価として生徒に伝える機会を作れば良いのではないですか?
一生懸命やったものに先生の感覚ではだらけていると感じる学年や生徒もあることでしょう。そういった人にはお前らだらけていると伝えればdolceさんの気持ちは晴れるのですか?
現在の評価方法は具体的に何がいけないのですか?
資金が豊富で、その資力で勝つところと、資金は少なくとも、努力を評価するという教育的要素を盛り込むということです。
プロでの評価は、純粋に音楽で評価すればよいと思います。
現行のコンクールも、音楽的に徹した評価をしているかも疑問に思います。
高校野球はプロでも通用しますが、現行の吹奏楽コンクールはプロでは通用しません。
プロを目指す奏者は、別の道を歩んでいます。
資金もある程度必要かと思いますが、私の中学関東大会出場を決めたときは、打楽器はひと揃えありましたが、楽器の状態はお世辞にも良いとは言えず。
ティンパニーなどはどれも張替えが必要だったと思われますが其の儘出場していました。
親の理解と協力があったことは確か。Trp(全員), Trb, Cla, Flu, A.Sax(1名)などMy楽器を買って貰っていた人が多かったパートもありました。
Timp.は関東大会時は同じ町内の第二中から借りて出場。Hrn,Euph,Tuba,B.Sax,Fagot,B.Cla,St.Bassなどは学校の備品で参加。
その中には音楽家になりたい人。医者になりたい人。官僚になりたい人。議員になりたい人。技術者になりたい人。様々居るわけです。
その中でコンクール以外に音楽的なことをどれだけやったかということを評価基準とすれば部活は拷問と化すでしょう。
全国常連の某工業高校で音楽で就職若しくは進学する人は何%居るのでしょう。
吹奏楽は趣味としてやる方々が大半で(部活で顧問これも趣味。本職は担当科目の教師。)プロになる人は吹奏楽部員の中でもそんなに居ない。それにそれだけの雇用を生めるほど音楽産業甘くないでしょう?
パーカッションもリズムを読めるだけの人(鍵盤は担当困難)。ドラムを叩けない人などを除いたら全国でどれだけの人が残るのか?
パーカッションも全ての楽器を遜色なく叩けるというプレーヤーは少ない。しかしこういったメンバーも人数勝負になる曲を演奏するには必須である。
アルメニアンダンスパート1・スペイン奇想曲など
就職してもどれだけ努力しようと結論として実行できていなければ意味はありません。
どんなお菓子があることを知っているお菓子屋さんより、おいしいお菓子屋さんのほうが売れる。
どんな薬か知っている薬屋よりどう使う薬かを知らないと薬は使えない。
そういった事実から見ても努力を評価するというのは間違った策です。
努力の中身はすべて実績です。
「できる」「できない」を問われるものは、
結果(できるできない)で評価されるのは当たり前。
特に学校単位の団体活動は「教育的意味」がある。
音楽のみで評価するのなら、プロ、アマの区別無く争うべきである。
現に、活動状況が評価されて表彰されているしくみは、他の分野ではいくつか存在する。