2008年02月06日

ホルン協奏曲

ホルン協奏曲もモーツァルトで決まりですね。
そして、奏者も歴史的な名奏者、デニス・ブレインを聴かずして、ホルンを語るなかれですね。

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デニス・ブレイン(Dennis Brain, 1921年5月17日 - 1957年9月1日)は死後の今にいたるも世界中で最も卓越したフレンチ・ホルン奏者として知られるイギリスのホルン奏者。

略歴
父オーブリー・ブレインは、BBC交響楽団の首席ホルン奏者としてロンドンの音楽界では著名な人物で、SP時代の録音で、ホルンの活躍する曲はほとんど、オーブリー・ブレインによるほどである。デニスは父の2番奏者として活動を始めた。1939年に録音されたモーツァルトのディヴェルティメント第17番の録音では、レナー弦楽四重奏団とブレイン父子の共演を聴くことができる。なお、ブレインの伯父アルフレッド・ブレインも父親の世代のプロのホルン奏者として活躍していた。
ブレインのソリストとしての最初の活動は、ブリテンの『テノールとホルンと弦楽器のためのセレナーデ』(Serenade for Tenor, Horn and Strings)の初演と録音である。この作品はブレインとピーター・ピアーズのために書かれたもので、その中でブレインはホルンの技術と表現の幅を示すことができた。
ブレインは21歳でシドニー・ビーア率いるナショナル交響楽団の主席奏者に指名された。そのときの録音、チャイコフスキーの第5交響曲やファリャの『三角帽子』(The Three-Cornered Hat)、ワーグナー の『ジークフリートのラインへの旅』(Siegfried’s Rhine Journey)で、ブレインの際立った音調を聞くことができる。
英国空軍に徴兵されたが、ピアニストのデニス・マシューズと競演したベートーヴェンのホルン・ソナタの有名な録音もあり、彼の演奏家としての地位は揺がなかった。
第二次世界大戦後、ブレインは二つの新しいオーケストラのホルンパートの主席奏者に招聘された。ウォルター・レッグが創立したフィルハーモニア管弦楽団とトーマス・ビーチャムが創立したロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団である。この兼務が可能だったのは、当時、ロンドンの多くのオーケストラは各演奏会で出演可能な演奏者の溜まり場を形成していたからであり、ブレインは双方の演奏会に毎回出演していたわけではなく、両方のオーケストラの録音時には出席するという実態であった。しかしながら、1954年4月には両方への所属が困難となり、ロイヤル・フィルを去った。
1957年8月、エジンバラ音楽祭からの帰路、トライアンフTR2に乗っていたブレインは交通事故で亡くなった。ブレインは車が好きで、譜面台には時々車雑誌が載っているほどだった。この音楽祭での彼の最終公演の一部はレコードに残されている。事故の翌日、ブレインはリヒャルト・シュトラウスのオペラ『カプリッチョ』(Capriccio)の録音のため演奏することになっており、事情を知らない人はサヴァリッシュ指揮で彼の演奏を聞けるものと信じて疑わなかった。プーランクのホルンとピアノのための『エレジー』(Elegy)は、ブレインを追悼して作曲されたものである。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

カラヤンが大変気に入っていたそうですが、わずか35歳で交通事故で亡くなってしまったのは大変に残念なことです。

モーツァルト以外では、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲も有名で、父親がホルン奏者でもありました。
そのせいか、オーケストラのホルンパートも難しいようです。

のだめカンタービレにも出てきた「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」の冒頭のソロはなかなか大変そうです。

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タグ:ホルン
posted by dolce at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 協奏曲
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