私はこの曲には思い出があります。
オーケストラで演奏するということになったとき、バルトークについて調べてみました。
こんなすごい作曲家が極貧にあえいでいたということが、強く印象に残っています。
そして、バルトークを救おうと委嘱されて完成した曲がこの管弦楽のための協奏曲であり、彼の代表作になったわけです。
バルトークには中国の不思議な役人という有名な曲もあります。
この曲は当時ボストン交響楽団の音楽監督だった指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーが、自身の音楽監督就任20周年を記念する作品として、また亡くなったナターリヤ夫人の追憶のための作品として、現代音楽の普及に努めるクーセヴィツキー財団からの委嘱としてバルトークに作曲を依頼した。几帳面だったバルトークは総譜の末尾に完成した日付または作曲期間・演奏時間等を記述する事が多いが、この作品でも出版譜の末尾に「1943年の8月15日から10月8日にかけて作曲」との記録が残されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アメリカへ移住したバルトークは、完全に創作の意欲を失っており、この委嘱が無かったら、弦楽四重奏曲第6番がバルトークの最後の作品になっていたであろうと考えられている。そもそもクーセヴィツキーの依頼自体が、当時健康状態の悪化で病院に入院し、ライフワークである民俗音楽の研究すら出来ず、経済的な困窮も相まって強いうつ状態にあったバルトークを励まそうと、バルトークがハンガリーから移住する手助けをしたフリッツ・ライナーやヨーゼフ・シゲティら仲間がクーセヴィツキーに提案して行われた、とも言われる。ブージー・アンド・ホークス社の現在の版の前書きによると、クーセヴィツキーは委嘱のためにバルトークの病室を訪れる際、当時としては破格の1000ドルの小切手を持参したという。
この委嘱によってバルトークは創作意欲を取り戻した。たった2ヶ月でこの作品を仕上げると、その後1945年に死去するまでこの曲以外にも『無伴奏ヴァイオリンソナタ』や『ピアノ協奏曲第3番』などの作品を残している。
なおこの曲の発想には、彼の楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが1942年にバルトークに送った「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、盟友コダーイの同名の作品(1939年作)の影響を指摘する声もある。

ショルティという指揮者は、アンサンブルをきちんとやる人で、気に入らないと入念にトレーニングをする人のようです。
そのせいか、メリハリのきいた演奏になっています。
ショルティ:シカゴ交響楽団の組み合わせは、相性がよく、ロンドンの優れた録音と相まって、よいCDを残したと思います。
シカゴ交響楽団の金管のすごさは、生演奏で聞くと度肝を抜かされます。
音がまっすぐ(微動だにしない)、すごい迫力、それでいてうるさくない。
