2010年02月18日

吹奏楽はいいんだけど

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吹奏楽の透明感は魅力的である。

でも、私はクラリネットを吹いているが、吹奏楽の中に入って演奏する気にはなかなかならない。
人によっては、えらそうなどと言う人がいるかもしれないが、決してそういう意味ではない。

神経を使って音を出しても、ぶっきらぼうな音にかき消され、演奏の意欲をなくすという経験をしばしばしたからだ。

決して上手ではないが、編成の中にクラリネット一本、あるいは純然たるソロの方が好きだ。
理由は、その方が自己責任であるし、私はこう表現したいという意図がよく伝わるからとも言える。

クラリネットは自分だけの場合「クラリネットが下手だ」と言われたら、それは自分に言われているということがよくわかる。

そういう意味では、オーケストラの中に入って演奏するというのは魅力がある。

こういうことはもいい悪いという問題ではなく、性格的なものだと思う。

人によっては、大勢の中で演奏するのがうまい人もいる。
それは、下手でもよいという意味ではない。
集団の一部として溶け合うやり方がうまいということであって、それも大切な人材であると思う。

だから、編成はそういう人の性格も考慮してつくることがいいのだろうと思う。

と、ここまで考えてくると、楽器と人の相性というのもある。
体格的な相性もあるが、性格的な相性もある。

優柔不断な性格の者に打楽器をやらせたら、遅れることが多いだろうし、トランペットに控えめな性格も合わないだろう。

学校では、やがて迎える新学期、部員募集、パート決めで指導者はよく考えてもらいたい。
posted by dolce at 21:22 | Comment(5) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2010年02月04日

コンクールまでの過程

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こういう演奏を聴いて、どう評価するか?

コンクールでは、審査員は純粋に音楽だけを聴いて評価するのだろうが、学校での部活の音楽は、音楽そのものだけではないと思う。

もう少し、具体的に言うと、このコンクールに来るまでどういう過程を経てきたかということを問いたい。

中学校の吹奏楽は、生活指導が大きな割合を占め、指導者(先生)の指導責任が8割だという人もいる。

練習の参加自体が問題になっている部もある。
欠席が多く、なかなかまとまった練習ができない。

部員はまじめでやる気があっても、練習場所に困る。
予算が少ない。
指導者にめぐまれない。

等々、学校の部活は音楽以前に様々な問題を抱えている場合がある。

様々な問題を抱えて、なんとかコンクールの日を迎えたという学校は、それはそれで立派なものだと思う。

いろいろな困難を経て、コンクールでいい賞をとるのが常連になった学校もある。
そうなると、困っていた部員集めも、入部希望者が多くてという事態になったりすることもある。

コンクールへ出るために恵まれた環境で活動した生徒たちと、困難を克服してコンクールへ出場した生徒たちとでは、どちらが得るものが多いかは、卒業後の生徒たちの人生を見るとわかる。

アマチュアの活動は、音楽以前の活動が大切であり、そこがプロとは大きく違うところでもあると思う。

優れた指導者は、めぐまれない環境の吹奏楽部に力を貸してやってほしいものだと思う。
posted by dolce at 16:39 | Comment(15) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2010年01月26日

スーザ 行進曲 「エル キャピタン」

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上手ですね。

このスーザの行進曲「エル キャピタン」は2拍子でも、6/8の2拍子が途中で2/4の2拍子になるところが、しゃれていると思います。

中学生時代に聴いたときは、そういう理屈は抜きに、かっこいいと感じました。
でも、分析すればそういうところが魅力を作っているんですね。

昔、吹奏楽をやっているとき、誰かが「マーチができれば、何でもできますよ」と言った人がいる。

以来、この言葉はずっと耳についている。

それで、中学校の吹奏楽部を指導していたとき、スーザのマーチ集が本になったもの、いわゆるバンドブックを使って、練習に使っていました。

毎日、順番に曲をかえていくのです。
最後までいくと、また始めに戻って演奏するわけです。

これは、けっこう成果があったように思います。

演奏する方も楽しかったようで、意欲に取り組んだと思います。

練習は「楽しい」ということも大切だと思います。

その楽しさは「音楽の魅力」からくる楽しさが大切だと思います。

スーザの行進曲と言えば「星条旗よ永遠なれ」が一番有名でしょうか。

バンドブックには当然載っていました。

フルートを吹いている人は、一度は、あのピッコロのソロを吹いてみたいと思うでしょう。

私が指導していた時の中学生も、新学期早々なのに、最初の練習で生徒はあのソロをかなり上手に吹いてしまいました。

今思うと、褒めてやったかどうか気になっています。

今日も、NHKの「クローズアップ現代」で、褒めることの大切さをやっていました。



posted by dolce at 20:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2009年09月22日

鑑賞に耐えうる吹奏楽

中学校も高等学校も、背伸びしすぎる選曲を見る。

背伸びしているというのは、音に余裕がないことからわかる。

いや、音に余裕がないだけでなく、いわゆる論語読みの論語知らず的な演奏でわかる。

演奏することだけが精一杯の演奏は聞き苦しい。

技量を上まわる曲を選曲すれば、生徒はごまかす習慣ができる。

何年もそういうことをやれば、ごまかすことが身についてしまう。

数小節のソロも満足に演奏できなくなってしまう。

オーケストラを作ると、吹奏楽経験者から管楽器を担当させようとするとき、よく感じることである。

テクニックの難しい曲でなくても、きちんと演奏すれば、十分鑑賞に耐えうる演奏の例を紹介しよう。


序曲「バラの謝肉祭」 / J.オリヴァドゥティ

吹奏楽経験者なら、一度は演奏した経験があるかも知れない。
一応演奏できたから、完成した、卒業したと思っている人はいないだろうか?

テクニックに不相応な曲を、何ヶ月もかけてやるより、テクニック的にやさしい曲を数多く完璧に演奏することを考えた方が、結局、演奏の力はつくと思う。

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2009年09月19日

個人と団体

最近はYouTubeに吹奏楽がアップされている。
コンクールの演奏も散見される。

著作権がどうなっているのか不明だが、コンクールがこのような動画配信で大勢の人に聴かれる機会が得られることはよいことだと思う。

いっそ、連盟は、コンクールの様子を動画配信できるように考えたらどうかと思う。

ところで、コンクールの演奏というのは、普通の演奏とは違う緊張感が漂ってくる。

トュッテイは猛烈な勢いで演奏され、すごさを感じさせる演奏が多い。
すごいので上手いかどうかという論議はさておいて、対照的なのがソロである。

よく練習してあるなあと感じるのだが、不満が残る。
それに、どうしても不安を感じる。

学生の頃、同僚のソロを批判して

「危ない危ないと感じながらも、なんとか到達するんですね」

と喫茶店で話していたものだ。

言いたいことは、プロの演奏では、それがオーケストラでも吹奏楽でもソロを聴くのは楽しみである。

団体の演奏にあって、ソリストはスターである。

金賞を目指して、青少年がまっしぐらに進むのは、それはそれで意義あるものだと思うが、吹奏楽では甲子園の高校野球のようにスターの存在が感じられないのが物足りないところである。

それに、全員でワーッと騒ぐような演奏でなく、もう少し楽器を鳴らす(力むのではない)という音作りに時間をかけて、音が楽しめる演奏を期待したい。

個人と団体ということであれば、管楽器に例をとれば、ピアノ伴奏付きのソロから50人以上にも及ぶ大編成まで演奏形態がある中で、人数が多いほど個人の存在は曖昧になりやすい。

私の場合、大編成に埋もれて、いい賞をもらったところで、いまひとつ充実感を感じなかった。

そういうことでは、1人1パートのアンサンブルは魅力がある。

日本人の性格的なものがあるのかも知れないが「みんなで」ばかりでなく、もっと自己主張のある演奏を期待したいものである。

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2009年07月20日

指揮者は時々交代してみよう

hazimetenosikiho.jpg
指揮は一人一派というように、一人一人スタイルが違うものである。

それだけに、その人固有の悪い癖というものもあって、それが演奏に影響する。

演奏は次第にその指揮者の音になっていくので、良いも悪いも、結局指揮次第ということになる。

重い演奏は重い指揮から成る。

音が汚いのも、指揮者の個性であるし、リズム感の善し悪しも指揮者次第である。

そして、これらの個人特有の個性というか、クセのようなものは、指揮をしている自身ではわかりにくいものである。
たまには、ビデオで撮ってもらって見てみるとよい。

練習に呼んだ講師には是非指揮をしてもらおう。
来客でも、多少なりとも指揮の素養がある人には、指揮をしてもらおう。

そして、それらの人の指揮でどのような音が出てくるのか、よく観察しよう。

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2009年07月20日

吹奏楽王国

bukatsudo_rebelup.jpg古くから使われている学級王国という言葉がある。
吹奏楽王国というのは、それをもじった言葉だ。

吹奏楽指導者には、大きく分けて、2つのタイプがあるように思う。

一つは、自分の練習に外部の者を一切介入させないタイプ。
もう一つは、その反対で、外部からの指導、助言を取り入れるタイプ。

先の、外部の介入を許さないタイプの吹奏楽部を吹奏楽王国とわかりやすく言ったのだが、この吹奏楽王国の場合、指導者がスーパースターでもない限り、演奏水準は低下の道をたどる。

某先生のもとでは、すばらしい演奏をしていたのに、その先生が転勤したあと、吹奏楽王国をつくる先生がやってきて、演奏は凋落傾向となり、惨憺たる演奏水準になったという例をよく見てきた。

不幸なのは生徒たちである。

吹奏楽王国をつくる人は、概してせまいと感じる人が多く、考えも独特のものを持っている場合が多い。
自分の指導に自信があるのかどうかわからないが、具合の悪いところを指摘されるのが嫌とみえて、こういう人にはモノが言えない。

言えばプライドを傷つけられたとばかりに激高し、収拾に苦労する。

吹奏楽に限らず、プロも含めて演奏に携わる人は常に勉強している。
だから、他人の批評には耳を傾ける。

中には、参考にならない批評もあるが、それはそれで、何を取り入れるかは自分で決めればよい。
いちいち反論するより、他人から少しでもためになるものを引きだそうとする姿勢が大切だ。

ヴァイオリンのミルシテインのように、ロジェーヌ・イザイのもとに行ったとき「君に教えることが何もない」と言われた人は例外であり、音楽家はみな先生を求めていると言ってよいだろう。

また「教えることが何もない」と言われるほどの人でも師を求めたということである。

もっとも、ピアニストのマルタ・アルゲリッチにある人が「あなたはどういう先生に習ったんですか?」と聞いたところ「私の前にも後ろにも、先生なんていません」と言われたそうである。

「言われたそう」ということで、真相はわからない。

まあ、そういうすごい人もいるかも知れないが、これも例外である。

指導者が誰からも学ぼうという姿勢は、特に子どもたちの心情にも影響すると思う。

指導者はただ指図をするだけでなく、自らの姿勢も指導の一部と考えて取り組みたいものだと思う。

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2009年07月19日

練習のムリ・ムダ・ムラをなくそう

暑い日が続いています。
こんな時、エアコンの設備のないところでの練習は大変です。

練習のムリ・ムダ・ムラとは、私が教わった先生で「家庭学習のさせ方」という本を出版した方が「勉強のムリ・ムダ・ムラ」をなくすと書いてみえたことが印象に残っていて、音楽の練習も同じだなと感じたことから、こういうタイトルにしました。

■異常な気温の中で楽器のピッチ(音程)を合わせることは難しい

管楽器は、常温でバランスのとれた音程(ピッチ)が保てるように作られています。

真夏で、練習場所にエアコンのないようなところでの、チューニングに時間をかれるのはやめましょう。
ムダなことです。

もし、そんな中でチューナーを使って、合わせたとしても、本番のホールでの演奏を考えた場合、かえって具合の悪いことになるでしょう。

■ソルフェージュの練習を取り入れる

管楽器の音が合うか合わないかは、演奏者のソルフェージュ能力によることが多いと思います。

環境が悪く、チューニングの意味がない環境では、演奏している曲を階名唱させるなどの練習を取り入れましょう。

演奏曲を歌わせて、あまり声が出ない場合は、楽器を使っても豊かな音が出ないと思います。

■たまにはエアコンの設備のあるところでの練習を確保しましょう

私が某県立高校で指導していたときは、音楽室にエアコンがなかったので、練習計画に数回はコンサートホールでの練習を取り入れてもらいました。

それもできない場合は、企業でエアコンのある適当な部屋を持っているところへお願いしましょう。
いろいろなコネを使いましょう。
もしかしたら、生徒にコネがあるかも。

校長先生の中には、暑い苦しい環境の中で鍛錬してこそ、人間が育つなんて勘違いしている人もいるかも知れません。
もし、そうならそういう認識を改めさせるのも、指導者の力と言えるでしょう。

■なるべく音程のよい楽器を使いましょう

プロならひどい楽器でも使いこなすように言う人がいますが、そんなことはありません。
逆に、プロの方が音程のよい楽器にこだわると言ってよいでしょう。

もともと、音程のよい楽器を自然に無理なく演奏することがよいと思います。
最近は国産の楽器の音程がよいので、国産中心が無難だと思います。

中には、楽器に変な(?)こだわりをもって、聞いたことのないような楽器を買っているような人がいますが、うまくいっているのか疑問に思います。

例えば、うちの子は先生のすすめで、ドイツ製のクラリネットを買ったという親がいました。

「ドイツ製のクラリネット?」
「エーラー式ですか?」
「さあ・・・・」

どんな楽器をいくらで買ったのでしょうか?

■音楽する意欲を低下させないこと

これが、最も大切なことでしょう。

「音楽っていいなあ」

と感じさせることが、一番の成功だと思います。

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2009年07月02日

大阪市音楽団

大阪市音楽団は歴史の長いプロの吹奏楽団だ。
その創立たどると1888年というから驚く。

大阪市音楽団(おおさかしおんがくだん、Osaka Municipal Symphonic Band)は、日本の吹奏楽団。略称は市音。大阪市の直営であり、日本で唯一の地方自治体が持つ専門吹奏楽団として活動している。前身は大日本帝国陸軍第4師団軍楽隊。定期演奏会などのコンサートのほか、CD「ニュー・ウィンド・レパートリー」シリーズで吹奏楽のレパートリー拡大にも努める。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大阪が経済的に苦しいと言われながら、元気に演奏活動がなされていることは喜ばしい。

行政は、よく箱物行政と言われ、モノ以外に予算を出さないということはよく知られている。

中学校の音楽でも、日本の伝統を重んずるということで、和楽器の予算は計上されたものの、和楽器を指導したりする部分には予算がつかない。

不景気だから、金を配るというのも方法の一つだろうが、精神的活力がなければ、復活も期待できない。

人には精神的な活力がいかに大切かということは、歴史的にも有名になっているシベリウスの交響詩「フィンランディア」にまつわる話でよく知られている。

私も、子供の頃、この交響詩「フィンランディア」を聴くとき、先生から話していただいた思い出が強く残っている。

音楽にはそれほどの力があるのだと、感激した覚えがある。
「フィンランディア」が作曲された1899年当時(1900年に改訂される)、フィンランドは帝政ロシアの圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていた。シベリウスが作曲した当初の曲名は「フィンランドは目覚める」(Suomi herää)で、新聞社主催の歴史劇の伴奏音楽を8曲からなる管弦楽組曲とし、その最終曲を改稿して独立させた物であった。帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのは有名な話である。

曲自体は、アンダンテ・ソステヌート、嬰ハ短調の重苦しい金管楽器の旋律から始まり、次いでアレグロ・モデラート、変イ長調でティンパニの銃の乱射を思わせるような緊迫感が漂う。
だがしばらくすると曲調は一転して、アレグロ、変イ長調の明るい旋律となる。そして、後に「フィンランディア賛歌(Finlandia-hymni)」と名づけられた美しい旋律が流れる。そして明るい旋律が再現され、曲は幕を閉じる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

市民を元気づける意味でも、機動性のある吹奏楽団は、商店街で演奏したり、各種行事で演奏したりすることに向いている。

プロ吹奏楽団は、今は他にもいくつかできたが、ぜひそれらの活躍も期待したいが、アマチュアの吹奏楽団も、コンクールばかりに没頭せず、たまには街に出て市民を元気づけるような活躍をしていただきたいものだと思う。
金賞をもらうのもいいけど、市民に幅広く演奏を聴いてもらうことは、もっと意義あることだと思う。
そして、フアンをつくることだ。

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2009年06月27日

司会は重要

コンサートで司会がやぼったいと興ざめ

演奏会の雰囲気を作る司会は重要である。
司会者の教養、品格が演奏団体のイメージを作る。

そういう意味では、金をかけても司会者はいいひとを起用すべきであると思う。

もっとも、金をかけてもと言っても、一応、プロなら誰でもよいというわけではない。
コンサートの司会は、音楽に詳しい人を起用すべきである。
そうでないと、頓珍漢なことを言ったりして、やはり興ざめになる。

最近では、テレビやラジオの司会をやっている人でも、時折、レベルの低い人が出てくる。
これは、経費節減で外注が多くなり、アルバイト的な人が来たりするからだそうだ。

プロなのに発音がおかしい、物事を知らなさすぎるという人もいる。

もうひとつ、変だなと思うことに、司会者が主人公になってしまっていることがある。
これなど、司会者とはなんぞやという基本がわかっていない。
司会者はあくまで脇役である。

このように述べてくると、いい司会者とはプロとは限らないかも知れない。

声がいい、話し方がうまい、教養がある、音楽を知っているなどは大切だが、研究心があることも必要。

本番の前に、下調べをしてデータを蓄積しておくような人でなければいけない。
こういうことをしないと、読み方を間違ったりして、恥をかいたり、失礼になったりする。

顔がいいというだけで選んでも、下手な司会をされると、団体のイメージ低下だけでなく、本人の顔もブスに見えるようになる。

司会も演奏者の一人ぐらいに思って、選ぶべきである。

これは、せっかくいい演奏なのに、司会で・・・残念というのを見てきているからである。

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2009年06月26日

吹奏楽でオペラを演奏する意味

吹奏楽はうるさい

みなうるさいのではない。うるさい演奏があるということ。
中には、ホールの後ろの方の席で聞いていても、耳が痛くなる演奏がある。

アマチュアの場合、管楽器をPPで演奏することが苦手の場合が多い。

日頃、PPで練習していないからだと言った専門家がいたが、これは間違い。
正しくは、楽器をよく鳴らす練習をすることである。
楽器が共鳴しないからPPも貧弱になる。

吹奏楽の練習は、ついつい大音量の方向へ行き、その環境に浸っていると、耳も次第にマヒしてきて、うるさいが気にならなくなる。

ずいぶん前の話だが、三重県の白子ウインド・アンサンブルという一般の団体をコンクールの会場で聞いたとき、ずいぶんきれいなPPを出すだんたいだなあと感心したことがある。

練習の目標としては、いかにきれいなPPが出せるか、またいかに音の割れないffが出せるかを常とすることが大切と思う。
PP〜ffの幅が広いと、表現力も増す。

吹奏楽は歌手に嫌われる

合唱に携わっている人からも嫌われがちである。
理由は音が大きいということ。
もちろんきれいな大きな音なら良いのだろうが。

どんなジャンルの人からも嫌われない音を目指そう

歌手と共演すると、歌手の声を邪魔しないような気遣いが必要になる。
ゲスト歌手を迎えると、それが有名なひとになるほど、演奏者が気をつかうので、音楽的には望ましい方向にいく。

オペラの曲を演奏することで、指揮者の技量も上がる

unmeinochikara.gif指揮者の評価として「オペラが振れるか、振れないか」ということが、しばしば話題になる。
それほど、オペラの指揮は難しいことがある。

ということで、歌手を迎えてオペラを演奏してみるのは、吹奏楽のレベルアップになると言いたいのである。

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2009年06月25日

吹奏楽でベートーヴェンを演奏する意味

吹奏楽でベートーヴェンが演奏されることは少ない。
なぜだろう?

ベートーヴェンが吹奏楽の曲を作曲していない

理由の一つには挙げられるだろうが、絶対的な理由ではないだろう。
メンデルスゾーンは「吹奏楽のための序曲」という曲を作曲しているが、あまり演奏されたことはない。

作曲家がオリジナル曲を作曲していないから、というのは理由にならないと思う。

演奏が難しい

ベートーヴェンの曲が、他の作曲家の曲と比べて、特に演奏技術が難しいということはない。

編曲がない

確かに編曲は少ないように思う。
私が知る限りでは「エグモント序曲」ぐらいだろうか。

ベートーヴェンの音

ベートーヴェンの音の響きが、吹奏楽で好まれるかどうかという問題。
吹奏楽コンクールを意識すると、響きが敬遠されるのかも。

それでも、吹奏楽でベートーヴェンを演奏する意味はある

ベートーヴェンをあえて吹奏楽で演奏する意味は、一言でいえば、大作曲家であるということである。

piano3.gif大作曲家というのは、音楽的に優れた曲を作った人である。
そういう曲に触れることによって、曲の持つ音楽性が演奏者に伝わるということである。

指導者があれこれ演説するより、大作曲家の名曲に触れることで、音楽性が高まると言えよう。

ここでの演奏例は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番だが、鑑賞としてはオーケストラの名演がたくさんあるので、そちらを聞いた方がよいだろう。

だが、この例のような演奏を聴いてから、数ある名演を聴けば、さらに音楽を理解する力は高まるように思う。
演奏をした者にとっては、その恩恵はさらに大きいと思う。

実際、こういうことをやってみると、中学生たちは、指導者が特に要求しなくても、気をつかって音を出す。

特にすばらしいゲストを迎えれば、その気持ちはさらに高まるようだ。

吹奏楽にとって、ベートーヴェンは偉大な指導者なのである。

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2009年06月23日

吹奏楽コンクールの演奏を聴いて

YouTubeには中高のバンドの演奏が載っている。中には、タイトルをつけて金賞という字幕が出てくるのもある。
最高の賞をもらった喜びが表れているのだろう。

ところで、それらの演奏を聴いた感想を述べてみたいと思う。
特別な意図を持って書くのではなく、あくまで率直な感想である。

個々の団体を例に出して述べると、わかりやすいと思うが、誤解されてもよくないので、それは差し控える。

楽器が鳴っていない
 
 最近は、中学生でもプロと同じ楽器を使っているところも、珍しく ない。
 でも、せっかくのよい楽器の音色をしていない。
 それは、楽器が鳴っていないからである。
 鳴っていないというのは、音量の問題ではなく共鳴してい ないということである。
 
 楽器が本当に振動している状態というのは、どんな具合かを知るこ とが大切である。
 多分、演奏に追われて、自分の音を聞く余裕がないからではないか と思う。

 管楽器は、中学生でも正しい奏法をすれば、よい音が出る。

指揮が音楽を表現していない

 メトロノームの代わりのような指揮が多く、その割には生徒たちが よく演奏していると思う。
 別の言い方をすれば、指揮と生徒の演奏がマッチしていなくて、違和感がある。

 指導者は指揮の勉強をしているのだろうか?

以上の2点が一番気になった。
あまり難しい曲に挑戦せず、もっと、自分の音を聞く余裕のある曲をやったらどうかと思う。

ロングトーンの時の音と、実際の演奏の時の音が違うようでは、何のためのロングトーンかということになる。

各楽器が共鳴すれば(よく鳴れば)、もっと会場に豊かな音が響き渡るのではないかと思う。

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2009年06月12日

何でも吹奏楽は無理がありますね

吹奏楽に限らないが、ある曲を演奏するには、よく合ってるなと思う楽器や演奏形態があります。

すばらしい曲であっても、演奏媒体が合ってないと聴いていてもおもしろくないですね。

二胡という楽器が人気になりましたが、人気が出ると、何でも二胡でやってみるという傾向があって、やってみることは無駄ではないにしても、しっくりこない曲はあります。

坂本龍一さんが、映画ラストエンペラーで二胡を使いましたが、あれはすばらしかったと思います。
ずっと印象に残っています。
二胡という楽器の音色が、曲のよさをいっそう際だたせる役割をしていたと思います。

琴もそうですね。
私は琴という楽器は好きですが、でも、琴でヴィバルディの四季は好きではないです。
何かふざけているように聞こえてしまいます。

ブラームスのクラリネットソナタを、トランペットで演奏しているのも聴きましたが、さっぱりよくなかったですね。
奏者は有名な人でしたが。

吹奏楽も、やはり、ふさわしい曲というものがあると思います。
選曲がふさわしくないと、練習しても労多くして成果なしということになります。

吹奏楽はマーチだけを演奏しろとは言いませんが、オーケストラものの編曲は気をつけるべきでしょう。

吹奏楽の音色を生かそう

吹奏楽の音色は重い

だから、重い感じの曲は合う。
くどい感じの音色とも言えます。
だから、オーケストラも、重量感がほしいところ、くどさがほしいところに使っています。

吹奏楽の響きは変ロ長調

これは変ロ長調の楽器が多いからと言えます。
変ロ長調の曲でなくても、変ロ長調っぽくなるんですね。
結局、楽器が変ロ長調だと、変ロ長調の倍音が出るんですね。

だから、トランペットをC管にしたり、チューバをC管にしたりすると全体の響きが代わりますね。

吹奏楽の編成にとらわれることなく、音色作りをしよう

教育的意味で、楽器をたくさん兼ねる場合は別ですが、そうでない場合は、必要最小限の編成ににして、管楽器以外の楽器も音色作りに使おう。

つまり、弦楽器、鍵盤楽器など演奏者がいたら取り入れてみる。

電子楽器も使い方によっては、効果が出ると思う。

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2009年06月08日

充実感のある練習

吹奏楽部の練習は充実感のあることが大切だ。

充実感がないと、次第に心は離れていってしまう。
それがサボリにも繋がる。

では、充実感のある練習とはどんな練習だろう。

それは、自分も演奏者として活動ができたと感じることである。

具体的に言えば、曲が難しすぎて、いつも完全に演奏できていないまま終わるという活動をしていると、不満足な気持ちが増大し、つまり充実感がないまま終わることになる。

学校の宿命は、学年の差があって、それが技術の差にもなっている。
同学年でも、個人差がある。

それら、差のある者全員に充実感を感じさせるには、練習メニューを工夫して、優しい曲も取り入れて、誰もが演奏できる工夫をすることである。

それには、優しい曲集を用意して、それを順番にやっていくようにすると良い。
たとえば、10曲ぐらい用意して、今日、一番やったら明日は2番というように決めておく。
10番までいったらまた1番に戻る。

これを繰り返しているうちに、マンネリ化してきたら、次に少しレベルの高いグレードの曲集を用意する。

指導者は、曲集について、各楽器の音域やテクニックについて無理がないかをよくチェックしておくことが大切である。

もし無理があったり、個人的に難しい場合は差し支えない音に変更するなどの工夫も大切である。

今日は、一応完全に演奏できたという実感を感じさせて終わるという練習が大切である。

よく、やる気があるとかないとか言う言葉を聞くが、先生の手前だけで生徒が「やる気があります」と言わせているだけでは、言葉を聞いただけの指導者の自己満足であり、言った本人とて、やる気があると言ったところでやる気が出るものではない。

音楽そのもので充実感を感じさせなければ、やる気は出てこない。

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2009年05月31日

吹奏楽部のよいところを生かそう

中学校の部活動というと、運動部偏重という学校が多いような気がする。

もっと言えば、文化部は部活動ではないといった風潮があること。

では、部活動の意味は何にあるのだろう?

運動部にしろ、プロの団体ではない。
だが、プロスポーツと錯覚しているような、運営をしている人もいる。

それは、勝敗至上主義である。
私は「何も勝つことだけがスポーツではないですよ」と公然と言い切る弱体運動部にかたを持っているのではない。

そういうことは、勝ってから言った方がよい。

東大を合格した人が「何も東大だけが大学じゃないですよ」というのは、格好いいが、そうでない人が言うのはみっともない。
もちろん、ハーバード合格の人が言うのも差し支えない。
(東大以上のレベルの人が言うのは、問題ないという意味・・・こう言わないと、最近は思考の狭い人がいてあら探しをするので)

勝敗がある以上は、勝つことを目指して努力することが大切だ。
それを、努力がしたくないがために「勝つことだけが・・・」というのはみっともないということだ。

ところで、運動部はいいのだが、たとえばバスケットボールの場合、常時試合に出るのは5人。控えを含めても10人。

だが、部員を30人以上抱えている部があった。
それだけ部員がいるということには、問題ないが、勝つことだけに目を奪われ、主力の者以外はほったらかしになることが問題である。

たとえ、10人しか必要なくても、30人抱えている以上は全員、充実した活動ができるように配慮すべきだ。

特に中学生の時期は、子どもと大人の間を行ったり来たりする、デリケートな年齢である。
「みんな大切だ」と口先だけで言っても、生徒は「自分は捨てられている」という感情にはデリケートである。

自分は大切ではないんだ、必要とされていないと感じると、退行が始まり非行に走ったりするもとになる。

吹奏楽部のよいところ

吹奏楽部のよいところは、コンクールでの定員漏れの場合以外は、全員レギュラーでやれるということだ。

そして、常に全員が指導者と向かい合っている。

指導者とすれば、様々な個性を持った生徒を、全員フルに活動できるよう、全員が充実感を感じるように指導を目指すことが、自身の成長にも繋がる。

よい指揮者は、すべての者に充実感を与え、すべての者を成長させることができる。
そのことは、指導者自身が他の活動、たとえば授業などにも役立つはずである。

授業で、上位の者に合わせると難しく、下位の者に合わせると易しすぎるので中位の者に合わせて・・・という論をしばしば聞くが、このようなことを言っている先生は、先生として落第であると思う。

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posted by dolce at 14:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2009年05月30日

吹奏楽コンクールのシーズン

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賞は一時の刺激でしかない

コンクールには運というものもついて回る。
それは、どのような人が審査員になっているかということにもよる。

たまたま、審査員の多くにうける演奏だったら、評価がいいということもあるし、その逆もある。

大切なことは、賞ばかり気にしていて、活動そのものがよくないと、実りが少ない。

ここでいう活動とは、音楽的にも、教育的にもという意味であり、実りが少ないとは、活動を通して生徒の成長がないこと感動がないことである。

非常にすばらしい演奏をしても、良い評価をもらえず、代表にもなれないこともある。
また、その逆もある。

良い演奏をすれば、たとえ評価がよくなくても、長い目で見れば、生徒(演奏者)を成長させることになる。
良い演奏でなくても、良い評価をもらったり代表になったりする団体もあるが、こういう場合はあまり感動もないし、その活動自体が心に残るものにはならない。

賞を気にするあまり、賞取りの作戦ばかりになるのは空しい

どうしたら、良い賞がもらえるかという秘訣ばかり追っているような練習は、心に何も残らない。

審査員を呼んできたりする団体もあるが、悪い教育をしているようなものだし、呼ばれて出かける審査員もレベルが低い。

勝つためには何をしてもよいと教えているようなものだ。

団体の演奏レベルを上げるには、指導者の音楽的レベルを上げることだ

学校では、生徒を叱ってばかりいる先生がいる。
しかし、肝心の自分の勉強がおろそかになっている人がいる。

生徒のレベルを上げたいなら、自分が勉強することだ。
先生の音楽性が上がれば、自然に生徒たちの音楽性も上がる。

具体的には、先生も楽器を習うとか、指揮法の勉強に行くとか、吹奏楽だけに偏らず、他の分野の音楽にも耳を傾けるなど、幅広い教養を積むことが大切だと思う。

・・・・・・・・・・・・・・

以上は、自分の活動を振り返ってみての反省である。

なぜ、このようなことを考えるかというと、残っている昔の録音を聴くと、それは、恥ずかしいことに自分自身の未熟さや進歩の状況が恥ずかしいほど現れているからだ。

一年中、コンクールばかりを中心にした活動もよくない。

コンクールで良い賞を取ったという噂だけ広まって、肝心の演奏をあまり披露したことがないという団体があるが、感心しない。

ばからしいと思うことに、演奏を一度も聴いたことがないのに、何賞をもらったというだけで、すばらしいと評価している人がいることだ。
大切なのは、賞がどうのこうのではなく、実際にその演奏がわかるかどうかだ。演奏を聴いてすばらしいと感じるのか、賞をすばらしいと思うのかどちらなのかということだ。

演奏というものは、ある特定のコンクールの賞だけで価値が決まるものではない。

演奏は聴衆があってこそ意味がある。
たとえば、街中に出て商店街の活性化のために、役立つ演奏をする。
何かの行事の開会式に華をを添える。
そして、多くの人に喜んでもらえる。
そういう活動が大切だと思うし、そういうことが生徒を成長させると思う。

コンクールに夢中になっている先生方には、広く大きな心で、コンクールだけに振り回されない活動をしてほしいものだと思う。

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posted by dolce at 21:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2009年04月14日

アナリーゼされた演奏を

何を言いたいのかはっきりしてほしい

亡くなった恩師がしばしば

「音を並べているだけだ」

と漏らしていた。

いろんなアマチュアの演奏を聴いて、そう感じていたわけだ。

たくさん音楽教室があるが、それらの発表会を聴いてみても、そういう感じは強い。

まずは楽器が弾けなければどうしようもないのだが、人には意思というものがあるので、それを演奏で表すことが大切だ。

最近思うことに、楽器を習っているのだが音楽は好きなのか?
ということがある。

そういえば

「自由な時間があったら何をしたい?」

と言うと

「遊ぶ」

などと答えが返ってくる。

「どんな遊びするの?」

と言うと

「いろいろ」

と言う。

「いろいろって何?」

と言うと、それ以上の返事はない。

このように、自分の意思はどうなっているのかわからないという現象が多いように思う。

こういうことが演奏にも反映して、聴き手に何を伝えたいのかわからない演奏もある。

いや、多いと言ってよい。

本当は意思があるのだが、明示することにためらいがあるのかも知れない。

私は人は本来何も意思を持っていない、ということはないと思う。

何か抑圧されていて、それが障害になっている。
あるいは、感動の経験がない。

植物の種は地上に落ちて、やがて芽を出す。
人の心もそのようなものではないか。

子どもの場合、種子の硬い殻に閉じ込められて発芽する機会に恵まれていないのかも知れない。

そうだとすると、大人は種子が発芽し自力で生長するあしがかりを作ってやる必要があるのではないか。

何を言いたいのか、ただ台本を棒読みをしているような演奏はアマチュアに多いが、プロの演奏でも何を言いたいのかわからない演奏もある

なぜだろうとあれこれ考えるのだが、プロの場合仕事になって感動がなくなってしまっているのかも知れない。
そういうことは以前から考えていたが、最近はもうひとつ別の考えが浮かぶようになった。

それは、指揮者がお坊ちゃん指揮者のような場合だ。
よくも悪くも何もない演奏をする。

音楽は表現するものである。
そこには、その人の歩んだ人生、日ごろの生活、人生観があると思う。

子どものころからお坊ちゃん生活で、ただ音大コースをたどっただけのような人には人をひきつける魅力的な演奏はできないのではないかと思う。

毎年繰り返される吹奏楽コンクールの悲劇

これは審査員の問題である。

もう音楽的世界から、心が引退してしまっているのではないかと思う審査員がいる。

大学で先生をやっているのかも知れないけれど、実際、何か創造的活動をやっているのか疑問に思う人がいる。

講評がカビくさい。

多分、月給をもらいにいっているだけだろう。

アルバイトが関係している審査員もいる。

地方こそいい審査員を持ってくるべきだ。
でないと、わざわざ優秀なところが落とされる恐れがある。

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posted by dolce at 09:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2009年03月12日

アンサンブルの目標

私は吹奏楽団の指導に行くこともあるので、練習の際、言い足りなかったことやまとめの意味で、このブログを通じて伝えたいと思う。

日本の吹奏楽は、コンクールを通じて発展してきたという面は大きい。
それは、競い合ってよりレベルが上がってきた反面、弊害もある。

弊害と言えば、某中学校では吹奏楽部へ入団すると同時に、自分の譜面台とチューナーを買うことが義務となっているとのことである。

自分の譜面台を持つということは、練習場所の移動などの時都合が良いと思うが、全員チューナーを持つ必要があるのかと思う。

チューナー本体だけでなく、チューナーにつけて音を拾う専用のマイクを楽器につけて、合奏中にもチューナーの目盛りを見ながら演奏をすると言う。

その効果だが、この学校の演奏を聴いたある人は素晴らしいと言った。
音が合っていると言うのだ。

このようにチューナーを使わせるのではなく、電子オルガンに合わせる先生もいた。

こういうのを見て、平均率に押し込めていると批判した人がいる。

コンクールは時間との勝負である。
だから即席の戦法が効を奏する。

だが、これはアンサンブルの目標に向かっているかどうかだ。

以前、紹介した小泉文夫氏の民族音楽大集成の解説に

日本では子供たちにピアノやバイオリンを教える。特に鍵盤楽器を中心とした音楽教育が盛んである。
このこと自体も決して悪いことではなく、便利なことである。
しかし1オクターブを12平均率で分けた、そうした機械的な楽器ですべてまかなってしまうということには、いささかの疑問がある。
世界のいろいろな音楽を見てみると、必ずしも1オクターブは12平均率で分割されてはいない。アラビアのように24分割されてあったり、細かく50数分割してあるなど、微少音程もある。或いは東南アジアのように5等分平均率、7等分平均率、9等分平均率といったような不思議な平均率の例があったり、また日本音楽のように、ある音は確定しているが、そうした核音以外は浮動しているといった、微妙な感覚によって音楽が支えられている場合もある。
このような点を考えると、現在行われている鍵盤楽器を中心とした、子供に対する音楽教育では十分に世界の民族音楽の楽しさ、美しさを伝えていくことはできない。・・・
小泉文夫・世界の民族音楽より

主旋律を平均率に押し込めてしまうというやり方は、文字通り子供を型にはめているようなものだ。

主になる音があり、それに他の音が合わせるという練習を積んでアンサンブルを作っていくというやり方をしないと、生き生きとした音楽ができないばかりか、集団で音楽を行うという意味すらなくなってしまう。

メーターに合わせるのではなく、互いに聴き合うということに時間をかけなければ、結局、アンサンブルの技術は向上しない。

聴き合うということは、耳をつくっていくということでもある。

始めは合っているかどうかわからなくても、指導者がそこに視点をおいて指導をすれば、次第に皆はそういう方向に向かい、耳もよくなっていく。

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posted by dolce at 23:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 吹奏楽

2009年03月08日

練習の効率

練習の効率が悪いと、練習時間が短くなるだけでなく、練習に集まっている者にも余計なストレスを与えて集中力がなくなる。

集中力が低下すれば、音に対する注意力もなくなり、ますます練習の効率は悪くなる。

それでは、どのようなことが練習の効率を悪くしているのだろうか、思いつくまま列挙してみる。

1.練習開始時刻があいまい

一応、集合時刻は決まっているのだけれど、いつ開始するのかその時次第という状態。
指導者や指揮者がいつ来るかわからないような団体に多い。

2.楽譜が整っていない

練習のたびに楽譜を探している。
練習計画がきちんとしていないせいもある。

3.無意味なチューニングや基本練習に多くの時間を使う

1セントもずれるのを許容しないという姿勢で、チューニングの時間に30分もかける。
それでいて、アンサンブルでは音程がよくない。

特に、まだ楽器が暖まっていないのにチューニングに時間をかけている無駄。

吹奏楽団では、練習曲がヘ長調なのに変ロ長調の音階ばかりやっている。

4.指揮者が演奏を中断させたとき、再開するときに時間がかかる

楽譜に練習番号が記入してない。記入してあっても再開する場所を見つけるのに時間がかかる。
指揮者の指示があいまいであったり、集中力を欠く者がいて、再開場所が徹底しない。

「Bから数えて、1、2、3、4、・・・・・8小節前です」

こういう指示はよくない。

「Bから」と言った時、演奏者は「Bから先」を数えているかも知れない。

「Bから先」とか「Bの前」とかを先に言うべきである。

それより、楽譜に全部番号がうってあれば、一声で「26小節」と言えばわかる。

5.休憩後、練習を再開するとき急に別の曲の練習をすると言う

休憩をとる前に、休憩後はどういう練習をするのか言っておくべきである。
同じ曲を練習するにしても「休憩後は・・・から再開します」と言っておくべきである。

これらのことは、団体の練習を見たり、参加したりするとき、気がつくことである。
1〜4までのことが毎回繰り返されているような団体は、演奏レベルも高くない。

演奏レベルの高い団体は、そういうことがないから練習密度が濃い感じがするし、参加者の充実感も高い。
よい気分で帰るから、また次に参加しようという意欲も出てくる。

特に、練習開始時刻は大切だ。
集まっても集まらなくても、決まった時刻に開始するという習慣をつけないと「早く行ってもしょうがない」という空気が蔓延し、次第にまとまりのない団体になる。

何回も繰り返すことで学習効果が出てくる。
学習効果は良い効果も悪い効果もある。
悪い学習効果が身につくと、団体に対する期待感も薄れる。

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posted by dolce at 12:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 吹奏楽

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