私の母校の中学校出身者で、プロ野球入りした人がいた。
その人を、A氏と呼ぶことにすると、A氏は始めから野球部ではなかったという。
別の部にいたA氏を野球部の監督が、スカウトしたということである。
野球部に入ったA氏は、それまで誰も飛ばしたことのない打球で皆を驚かしたらしい。
とんでもない飛距離で、ガラスをよく割ったという。
やがて、A氏は高校へ行って野球をすることになるが、ここでもびっくりする飛距離の打球で、近所の家に迷惑をかけたために、学校はグラウンドにネットを張り巡らしたという。
このように、プロ入りする人というのは、子どもの頃から「この子は違うぞ」と感じるものがある。
これは、音楽の世界も例外ではないと思う。
今日、NHKのトーク番組にゲストとして、東大大学院教授の姜 尚中(かん さんじゅん)さんが出演していたが、姜さんはプロ野球の選手になりたかったそうである。
「大学の先生にならなかったら、何になっていましたか?」の質問に対し「プロ野球の解説者になっていたんじゃないかと思います」と答えてみえたが、それほど野球が好きだったということなのだ。
だが、好きだけではなれないということはあるわけで、その見限りも大切なことだ。
ところで、話題になった
辻井伸行さんのように、権威あるコンクールに優勝したような人は、プロ入りのお墨付きをもらったようなものであるが、それはプロとしてのスタート地点なわけである。
やはり、プロ野球選手でも指名を受けてプロ入りしたら、そこがスタート地点なのである。
たぐいまれな素質を持って、スタート地点に立って、期待通りに誰もが活躍するとは限らない。
音楽の世界はどうだろう。
やはり、同じようなことが言えるのではないだろうか?
プロスポーツ選手と違うのは、もっぱら精神的成長なのだろう。
プロとして、弾けるというのは当たり前のことだが、問題は作り上げる音楽がどのくらい人気を呼ぶかということである。
しかし、音楽の難しいのは、人気があるということが、芸術的に価値が高いとは必ずしも言えないことにある。
プロ音楽家として生計を立てようとすると、演奏そのものは価値が高いのだが、収入はそれほどということもあり得る。
そうした時に、誰が生活を支えてくれるかということが問題だ。
歴史に残る音楽家でも、経済的に苦労した人は多いようである。
経済的に心配がなかった音楽家と言えば、メンデルスゾーンが頭に浮かぶが、あのベートーヴェンでさえ、スポンサーがいたからよかったと思うし、チャイコフスキーはフォン・メック婦人というスポンサーがいた。
ストラヴィンスキーは春の祭典の不評ですっかり、音楽界から沈んでしまったような時期があったようだ。
その時、あるブランドメーカー(名前は忘れた)が援助したという。
大音楽家も、評判には影響を受けるものであり、ビゼーはカルメンの初演の不評(不道徳だという批判だったらしい)で、すっかり落ち込んで38歳で亡くなってしまったらしい。
リヒャルト・シュトラウスは彼の作曲「英雄の生涯」にて、無責任な批評をする評論家たちを皮肉っている。


辻井伸行さんもプロとして、これから進むとき音楽家としての批評にさらされるわけであり、演奏家の場合は、作品の解釈が問題になるわけである。
彼が人気を気にして進むのか、自分の音楽に驀進するのかこれから楽しみでもある。
ピアノ演奏家ではグレン・グールドという変わり者がいるが、彼は専ら自分の音楽に驀進した方だろう。
カラヤンの場合、かなり商業的なベースを気にした人と言えるのではないか。
そのためか、評論家の中には芸術ではないという人もいる。
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