リードは厚いほどよいと思っている人もいるようで、この話を聞くとすごく昔のことを思い出す。
クラリネットの正しい奏法が普及していなかった昔では、外国のオーケストラの奏者が顔を真っ赤にして吹くのを見て、すごく厚いリードを使っているのだと錯覚した人もいたようだ。
そして、厚いリードを使っているのが自慢という時代もあった。
しかし、今日、そんなことを考えている人は前近代的な部類に入るのだろうと思う。
吹奏楽が盛んな日本だが、意外と正しい奏法が普及していないと感ずることがあって「そんなことやっているの?」と驚くことがある。
アメリカでは吹奏楽の指導者になるのは、そんなに容易なことではないと聞いたことがある。
指導者となるには、一応、ほとんどの楽器は経験するという。
ということは、アメリカの吹奏楽指導者は大体、すべての楽器について基本は押さえているとも考えられる。
一方、日本では事情が違うので、指導者によってはほとんどあるいは全くと言ってよいほど無知な楽器がある。
クラリネットにおいては、盛んに厚いリードを生徒にすすめる指導者は、その生徒のクラリネット奏法の将来をつぶしてしまうことにもなりかねない。
吹奏楽のよいところは、多少技術が未熟であっても参加できるということがあると思うが、これには弊害がないわけでもない。
不完全でも大勢が集まればなんとかなるということは、それを続けている限り、独り立ちができないということでもある。
私の考えでは、縁あってクラリネットを始めたならそれが一生の友となり、豊かな人生を送る一助であって欲しいと思う。
それには、次第に
自立できる演奏者という方向で、指導者も考えてやるのがよいと思う。
とかくうるさくなりがちの吹奏楽に浸かっていると、よく鳴らない音、不得意な音はそのままで、何年経っても音階がまともでない状態が続く。
その途中で学校を卒業したりして、1人では何もできない状態で放り出されたような状態になる。
厚すぎるリードの弊害というタイトルだったが、これは
そのリードでクラリネットの音域の音をすべてムラなく鳴らせることができますか?ということである。
ある音は、ほとんど風音で使い物にならないなんてことはありませんか?ということである。
音楽をする素材としての音は粒が揃っていなければならない。
でなければ独奏はムリでしょう。
あるいは、
そのリードで何分吹けますか?ということも考えてみる必要がある。
奏者としては、
協奏曲1曲が吹けるだけの耐久力が必要だということを以前述べたことがある。
まあ、誰でもがそう簡単に協奏曲を吹けるわけではないが、そういう方向で練習を考えていくのがよいと、私は思っている。
厚すぎるリードを使う弊害は、どんどん口を締める方向に行くということだ。
これは楽器がどんどん共鳴しない方向に行くということだ。
また、厚いリードを使っているときは、腕や体に力が入る。
音楽をする前に余分な力が入っていたら、良い演奏はできない。
だいたい、厚すぎるリードでは楽器を鳴らすだけが精一杯となり、柔軟な表現ができなくなる。
私は
リードは薄いほどよいとも言わない。
薄い音でよいとも言わない。ある先生は「いかに薄いリードで厚い音を出すかだ」とも言った。
なるほどうまい表現だと思った。
大切なことは楽器を共鳴させることであり、厚いリードが共鳴するという錯覚に陥らないことだと思う。
